なにも、なかった
083:荒野の果てには何があるのだろうかと夢見た日
ひゅんと空を切る木刀の一刀で卜部の動きが弛んだ。息を吐ききる。日がかげれば肌寒くなる頃合いであるのに運動していた所為か寒さは感じなかった。格子の嵌った開口部から矩形の白が床へ反射する。歩み寄って見上げてみればすでに月が上っている。入り口を見やれば靴は卜部のものしかない。そのまま流れる目線が眇められる。荷物の置き場や更衣室を兼ねた別室がある。時折子供たちの父兄が迎えに来て居座る。稽古が終わるまでの座談会の場になり、稽古を終えた女性や子供が現れればお開きになる。そこには卜部の荷物ともう一組の荷物がある。薄手の黒い外套と身の回りの品しかない。財布がそのままおいてあるので用心深いとも言えない。だが財布を検めたところで身分証のたぐいは一切ないし盗人は現金だけを見つけるだろう。
卜部は道場の上座に居座る神棚にふんと鼻を鳴らして木刀を放り出した。渇いた音がしてからからと次第に小さくなっていく。音がすっかりしなくなってもそれを咎めるべき道場の主は現れない。はらはらと汗ばんだ額に落ちてくる髪をかき上げる。
「…帰るか」
そもそも卜部がいる事自体を藤堂は知らない。何とはなしに顔を出した。もともと卜部は勤勉な性質ではないから直属の上司である藤堂がやっている道場にも籍は置いても顔を出さない。卜部を含めた男女四人で構成されるひとくくりの面々はそれぞれに籍を置き、朝比奈などは頻繁に顔を出すようである。卜部はわざと稽古が終わるのを待って顔を出した。煙草を喫みながら道場が空くのを待っていた。稽古終わり間際に藤堂が辞して、後は適当に帰路へついていた。所用ができて席を外すことと各々好きな時間に帰宅すること、忘れ物はないように、という諸々の旨を掛け声に負けずに言いつける藤堂の声が聞こえる気がする。まとめ役でもある朝比奈が判ったと返事をして念入りに扉を閉めて帰っていった。施錠されていたが卜部は鍵をくすねて合鍵を作った。藤堂にバレたら破棄してもいいと思っているが今のところ何も言われないし、門下生と鉢合わせもしないのでなんとなく続いている。
縫い目の荒い生成りの道着に紺袴の稽古服だ。剣戟の道場であるから袖はゆったりとしていない。卜部の尖った肘が覗いた。袴の裾は床につかない際どい長さでそれでも踝はチラチラ覗く。衿を緩めて手で扇ぐがなんの効果もない。卜部が藤堂に拘泥しているだけなのだ。無理やりつなげる関係を腹に抱えながらああも清々としていられるのが癪に障った。世間知らずではないし、高貴な生まれでもない卜部は底辺を這う暮らしだ。蹴りだされない寝床や毎日の食事がこんなにも価値観を変えるとは思わなかった。敵国のお下がりであっても戦闘機を使う戦闘は白兵戦を凌ぐ。表示画面に写るポイントとロスト表示や警告音。手首の返し一つで命がひとつ消える。その戦闘機が人型であることはひどい皮肉だと思った。人がヒトに乗って人を殺すのだ。
ぽたり、と汗のしずくが頤から堕ちた。瞬間に感じた感覚に卜部は叫びだしそうになるのを必死になって殺した。膨張して圧してくる感覚と冷徹な鋭気。ごくりと喉が鳴った。ゆっくり振り向くと衿を乱した藤堂がそこに立っていた。唇の端でも切っているのか頤を一筋切り裂くように線が見えた。紅いはずのそれがひどく黒くて藤堂が闇を吐いているかのようだ。玉の煌めく灰蒼の双眸は驚きに見開かれていた。
「何故、いる」
「さぁ?」
肩をすくめて片方へ重心を偏らせるのは卜部の常態だ。軽薄だ不遜だと言われるが生まれてこの方これしか知らないから直しようもない。必要も感じない。見せかけで満足するその程度の下に甘んじるつもりはなかった。汗が冷えてうそ寒い。藤堂の気配が違うのだ。戦闘中の藤堂と平素の藤堂は違う。道場で何度か立ち合ううちにその差に気づいた。戦闘中に酷薄な分平素の藤堂は優しくあろうとしている。癪に障る。狂戦士にでもなっちまえ。
「あんたには悪いがちょっと具合を効かせてもらってるぜ。迷惑ならやめるけど」
藤堂は黙ったままだ。視線がすぅっと冷える。灰蒼が潤む。藤堂の体が沈んだ。卜部は足元の木刀を蹴りつけて跳ね上げる。藤堂が壁に揃えてある木刀を取ったのと同時だった。ガァアン、と堅い衝突音がこだます。丈は卜部のほうがあるのに藤堂が圧し勝っている。卜部の膝ががくがく震えた。藤堂の一撃は重いのだ。たとえ武器に殺傷能力がなくても、藤堂の腕なら殺せる。
「うぜぇ」
ばぢぃ、と弾いて藤堂と卜部の腕がふわりと浮く。すぐに一撃が奔り二人でガンガンと噛み合った。半歩下がった卜部が迫り来る疾風に震えた。すぐに上体を横へずらす。顔があった位置へ正確に突きこまれる切っ先に笑いながら戦慄した。
「木刀で、顔面、狙う、なぁッ!」
大上段からの打ち込みにさえ藤堂は何くわぬ顔で耐える。ちりり、と灼ける微音がして卜部はこめかみからの出血を血液の流動で悟った。ビリビリと震えるほどの闘気。冷静で淡々として、だが藤堂の体からにじみ出るそれは明確だ。木刀の合わせを解くと同時に床を蹴って距離を取る。
考えた瞬間だった。張り詰める腹部の逆側。視界をかすめたそれが何であるか知る前にそれが卜部の腹部へ食い込んだ。片脚を振り上げた名残の藤堂の姿が見える。蹴り飛ばされた卜部は壁に衝突して上からバラバラと降ってくる。一瞬だけ見あげるとあったはずの神棚がない。散らばる白い陶器の破片や木片。紙片まである。壁に衝突した卜部の衝撃が神棚を崩壊させたようだ。なにか喋ろうと開いた口から澱を吐く。激しく咳き込んでむせるのを藤堂は見ているだけだ。喉がヒュウヒュウと鳴る。吐瀉物が卜部の頤を汚した。袴へ染みる吐瀉物が重い。藤堂の一撃は剣戟でなくとも健在だ。
「ふざけろ」
ホコリの中で立ち上がった卜部がその場から加速する。低い位置を取るのを藤堂が振りかぶって受ける。ガァン、と木刀が撃ちあう刹那。卜部の手が離れた。藤堂が打ち込んだ勢いのままに傾ぐ。木刀が打ち下ろされた勢いのまま吹き飛んでカラカラと落ちていく。何が起きたのかわからない顔をして灰蒼が卜部を見た。卜部の手が藤堂の顔面を掴む。そのまま押し倒すように床へ叩きつけた。藤堂の体躯がのけぞり、頭部の衝撃に痙攣する。
「舐めんな。ルール無用ならこっちにも覚えがあるぜ」
体を起こした卜部が念の為に少し距離をとった。藤堂相手では気休め程度だがないよりマシだ。ぴくりと指先を震わせて起きた藤堂が鼻から出血している。ぼたぼた垂れるそれを拭いもしない。卜部は嘔吐しているし藤堂は流血するし後片付けが大変そうだと卜部は茫洋と思った。卜部の手元に武器がない。舌打ちして木刀の位置を測る。この一撃で藤堂が沈んでくれれば話は易いが、藤堂がそんなに易い性質ではない。卜部は徒手空拳を構える。いざとなったら跳んで木刀を拾うつもりだ。卜部は背丈がある分四肢が長い。既製服が合わない不便を戦闘の利で消費している。喧嘩の際にしか役に立たないが、藤堂との戦闘に明確なルールはない。
藤堂が口元を拭った。紅い汚れを灰蒼が見つめる。鼻からの出血は重症ではないらしく今は止まっているようだ。藤堂が拭った後からあふれる鮮血はない。藤堂の口元が真っ赤に汚れた。
「…何があると、思う」
「はァ?」
「私達が戦う先に、何があると、思う時がある」
卜部が吐き捨てた。
「ねぇよ」
藤堂の目が呆然と卜部を見据えた。殴られた子供のように無垢で信頼に満ちていて何の損傷もない、子供の。
「なんも、ねぇよ!」
発動した藤堂の動きに対処できなかった卜部の足元が掬われた。膕を砕かれてくずおれる卜部の脚を藤堂が抱え込む。嫌な予感に爪を立てる卜部を藤堂はなんとも思わないのか傷さえ省みることなく卜部の袴の腰紐を解く。
「やめろ」
衣擦れの音がする。卜部の袴が解かれた。痩せた脚と腹。藤堂は抱え込むそこへ明確に触れてきた。脚の間で動く手が憎らしい。
「放せ」
「嫌だ」
藤堂が明確に拒絶した。卜部の腰がびくびくと跳ねる。脚の間の藤堂の手は確実に卜部を犯しつつある。熱の触手が卜部の四肢を絡みとる。そのまま身を任せて喘ぐのは気持ちがいいだろう。だが同時に藤堂さえも犯すそれを卜部は見逃せなかった。ぬるり、と藤堂の指先が卜部の抜き身を撫でさする。それがひどく楽しげに口元に笑みさえ浮かんだ。眇められて潤んだ灰蒼が痛々しくて卜部は目を背けた。艶めくそれを痛く感じたのは初めてだが直感に近いそれに背く気が起きなかった。藤堂は卜部をいたぶりながら自身さえ苛んでいる。自分に切りつけるような藤堂を赦せなかった。
「放せ!」
吼える卜部に藤堂がたじろいだ。震える指先が遠のく。
「うらべ」
藤堂の声が遠い。いっそ聞こえなくなってしまえばいい。この耳さえ、目さえも潰れて何もわからなくなってしまえばいいのに。
「わたしは」
「わたしは、おまえが」
「うるせぇ黙れ聞きたくねぇ」
握りつぶされたように藤堂の双眸が収斂した。潤んで満ちる灰蒼は揺らめきながらゆっくりと卜部から外れていく。のそのそと藤堂が離れていく。あれほどに猛っていたはずの体温が低くなって藤堂の体さえ消えそうだ。それでも卜部は言葉を撤回しなかったし藤堂も問わなかった。
「す、まない」
ふらふらとした藤堂は明瞭な足取りで荷物を取るとそのまま道場を後にする。扉を閉める音が響いた。じゃりじゃりと藤堂が砂を噛む音さえ聞こえた。それが遠ざかっていく。
振り上げられた卜部の拳が床を殴りつけた。ばぁんと響くそれに比例するように手がしびれた。痛みは、なかった。夜の音がする。何物かもわからない鳴き声。降り注ぐ月光にさえ音があるような気がした。
「くそったれ」
卜部の中を苛むのは自分が吐いた言葉だ。
なにも、ない
卜部の口元が震えた。握り締める手の内で爪が肉を裂いて出血する。ぎりぎりと音さえするそれを卜部は気づかずに握りしめた。爪が肉を裂く。
「そうで、なきゃあ」
壊れてしまうと、思った
《了》